自己評価と他己評価ってずれるよねー
他者は私を外側から見ているけど、私は私を内側から見ている感じだもんね。そりゃ見え方違うよね。
だから自分の行動が、自分の意図しない意味で相手に伝わってしまうとかよくある。
私が私の外側を見つける訓練も必要。客観視する訓練は、だから必要。
ずれを感じた評価がいくつかある。
自分にできる精一杯のことを相手にしようとすると、周りから「優しい」「面倒見が良い」、果ては「お人よし」まで言われた。
うーん自分ではそこまで深く考えていなくて、ただ手伝えることがあるなら手伝うよ、くらいのつもりだったんだけどなあ。でもよく考えると、その人の力になるためのすべをあまり持っていない私がしゃしゃり出たところで、素人二人で問題解決にあたるようなもので、もっと専門の詳しい人にお願いするという提案をするのが、私のすべきことだったのかもしれないと思った。
「おとなしい人」
全くそんなことはない。多分話すのが少し面倒で黙っていただけなのではないかな。省エネタイプなので。自分が場を盛り上げるべきかな?と思ったらちょっとギアを入れてよく話すこともできるけど、その必要が無ければ特に話すこともない。
「芯がある、周りに惑わされない」
これは意外だった。正直自分の中に芯があるなんて思ったことはなかっ…まあ、やりたいことはやってきたかな…そういう意味で…芯があると言えば…あるのかな…
「何でもできそう」
そういう評価をくれるのはありがたいけど、当然そんなことはない。もう裏では足掻きまくってる。小さいころから練習風景を人に見られるのが嫌で、上手くない自分を見られるのが情けなくて恥ずかしいと思ってたから、一人でこそこそ練習するのが当たり前だった。そのまま成長したもんだから、今でもこそこそ頑張ったりしてるわけで、表にあんまり見せないからそう思われるのかも。
でもこれはこれでどうなんだろう。変なプライド見せずに、こういうことしてますって、見せられるところは見せたらいいんだろうか
「恋愛とか興味なさそう」
そんなわけないやんか
いや世の中には、本当に恋愛に興味ない人もいるけれど、少なくとも私は興味あるぞ。
なんか、私たち自分のことを棚に上げて他人を観察しがち。つまりさ、自分も他人も所詮人間なのに、あの人はこんな感じっぽいとか色眼鏡で見てしまう。
例えば、「恋愛に興味のない人」だと思われていたこと。確かに恋愛の「れ」の字も聞かない時期は長かったし、そのほかのことにより大生の力を注いできたというのもあるけど、「恋愛に興味ない」なんてこと全くなくて、人並みに興味あって人並みに悩んでるただの人間。そういう自己認識。
で、自分でそういうもんだ、人は見かけによらないもんだ、ていうか恋愛に興味なさそうな見た目って何なんだとか思っているにもかかわらず、他人と接してみて「あれ、この人は恋愛に興味ないのかな」とかふと考えてしまう。なんか人間って自分勝手というか、自分のことを度外視するのが得意なのかな。自分を良くも悪くも特別扱いするのが得意。
・なぜずれるの?どういう仕組み?
ずれるのは自分の認識が偏っているから?
・ずれは是正すべきもの?放っておいてもいいもの?
誤った自己評価の静で他人に迷惑をかけている現状があるなら、自己認識を改める必要があると思うけれど、そこを判断するのは難しいね。自分の何が悪いのか気づいていない状態ってわけだから。